2012年03月31日

幹事長 伊藤祐靖の読みきりコラム

精神の継承

 自分でも最近は「平均的感性からだいぶ離れたところにいる」という自覚が出てきた。生まれてこの方、「おかしい」とか「変」だとか言われ続けてきたが、「ちょっと変わったところがあるけどね」という程度で、さほどかけ離れてはいないと思っていた。このだいぶ外れた私が出来上がっていく過程の始まりは、あの日にあったと思っている。
それは、5歳の時の父との会話だった。
父は、廃墟のようなビルから25m離れたところに立ち、エアーポンプ式ライフルを構えていた。非常階段の2階からタコ糸でぶら下げられた拳(こぶし)大(だい)の石が、私の目の前、手を伸ばせば触れられるところで振り子のように揺れていた。かすかな発射音の後、その石は原型のまま地面に落ちた。父は射撃姿勢を崩し、命中させることによって切ってしまったタコ糸に再び石を括り付けるように身振りで指示した。
これは、物心ついてから毎週日曜の午後に繰り返されていた光景である。父は、昭和2年1月東京で生まれ、陸軍予科士官学校から陸軍中野学校へ行った。終戦から24年を経ていたこの時、私の役目は、切れたタコ糸の先端に、再び石を括りつけ、それを揺らすことだった。
その頃は、「よく当たるもんだな〜」位にしか思っていなかったが、私自身が、日本を始め各国の軍隊、警察に射撃を教える立場になり、いかにそれが常人離れした技術であるのかを実感している。私には、25m先の揺れている糸を「立ち射ち」で命中させることなんか絶対にできない。父は、1日に2発しか撃たなかった。何百回も撃っているのを見ているが、ただの1発も外していない。できる、できないの話ではなく、“ありえない話”である。しかし、それは私の目の前で繰り返されていた、現実に“あった話”である。
物心ついた時から、自分の父を“へんな奴”だと思っていた。なぜなら、街を闊歩している愚連隊風の奴に絡まれた時、想像を超える手段で瞬間的に解決するような、隠し切れない残虐性や、夜中に2階で寝ているのに、道路に落ちた硬貨の音で目を覚ましたりする異様な視覚・聴覚・臭覚。そして、規則・法律・常識・ルール、それらすべての外側で、ものを考える習慣を持っていたからである。この射撃訓練もその怪訝さを深めさせる要因の一つだった。
 5歳の私は、子供なりに意を決して父に聞いた。
「お父さんは、鉄砲が上手だね。それがお仕事なの?」
「ん〜、一番得意なのは、毒殺と爆殺なんだよ。鉄砲はあんまり使わないかな……」
《毒殺?? 爆殺?? 何だそれ??》
「なんで鉄砲撃ってんの?」
「集中力かな?? 一瞬のタイミングを逃さない勘がなくならないようにしてるんだよ」
「ふ〜ん、僕はしなくてもいいの??」
「要らないんじゃないか」
「何でお父さんだけなの??」
「わしはな、昔、ある人の暗殺命令を受けてな、そのまま戦争が終わっちゃって、その命令が取り消されてないんだよ。練習してないと『明日行け』って言われた時に困るだろ、だからやってるんだよ」
「お父さん、戦争って僕が生まれる前に終わったんでしょ?? 誰がお父さんに行けって言うの??」
「誰かは、知らんけどな。行きますって答えたまんまだし、言われたら困るだろ」
「言われないんじゃないの。困んないよ、きっと」
「戦争っていうものはな、どうしても譲れないものがあるからするもんなんだよ。元に戻すまでは止めないんだよ。終わったふりも、負けたふりもするけどね」
「…………ふ〜ん。それじゃ、また言われるかもしれないね」
物分かりがいいふりをしてしまった私だが、「こいつ、やっぱりおかしい……」と確信し、今まで以上に父をいぶかしく思うようになった。一方で、その潔い考え方は好きになった。同時に、父の戦争観は戦いの持つ悲哀を鮮烈に私に焼き付けた。
潔い考え方というのは、言い訳の匂いが全くしないことである。特攻隊の生き残りだとか戦中派を自称する人は、「命令は絶対であり、その命令を受けた」と「受けた」を強調する。対照的に、父は、「その作戦を実行する」と自分で決めたと言っていた。前者には、「仕方なかった」という言い訳の匂いがするのに対し、後者には、それが全くない。
戦争観とは、「どうしても譲れないものがあるからする」という言葉に象徴される、徹底的に避ける努力をした上で、最終的には戦わなければならない場合もある、という考え方である。「戦争体験者」なる人が「戦争は悲惨なもんです。絶対にしてはいけない行為なんです」と説くのとは、完全に別ものである。「戦争っていうものはね……」と語りかける口調は柔らかく、眼差しも優しかったのに、そこには、子供心にも身震いするほどの衝撃があった。あたかもそれは、どこに焦点が合っているのか分からない目つきで私の心臓に短刀を突き刺し、ゆっくり引き抜いて「止められる位なら始めね〜んだよ」と、呟(つぶや)かれたかのようであった。
父が18歳の時に戦争は終わった。却下命令がなかったため、暗殺命令の対象者が病死するまでの30年間、父は訓練を続けた。暗殺対象者の死をもってようやく戦いから解放されるはずであったが、驚くべきことに、父が解放されることはなかった。“どうしても譲れないものがあるから”始めた戦争は、“元に戻すまでは止めない”。つまり、日本が元に戻っていない以上、止めるわけにはいかないのだ。
「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずしての亡国は、魂までも喪失する永久の亡国なり。たとえ一旦、亡国となろうとも、最後の一兵まで戦い抜けば、我らの子孫はこの精神を受け継いで、必ずや再起する」。当時14歳だった父は、開戦の経緯は、よく判らなかったが、開戦直後にラジオから流れたこの永野修身軍令部総長の言葉で「“生き方”と“死に方”を決めた」と言っていた。父の「どうしても譲れないもの」とは、亡国をも覚悟して戦う魂であり、「元に戻そうとしているもの」は、最後の一兵まで戦い抜く精神である。それを日本に戻すまで、父は解放されることはない。
その土地に本気で住む気のない者が仮に善意で介入したとしても、そこに平和も安定も生まれない。残るのは不協和音といびつな体制である。イラク、アフガン然り。日本がその典型であることすら気付いていない人が多過ぎないかと思う。或る日突然、中学生が他国人に浚(さら)われても、取り返そうとすらしない国を、決して平和で安定しているとは言わない。
私の成長過程に父は、一切干渉しなかった。事実「○○をしろ」とか「○○をするな」などと言われたことは1回きりだし、私も、父を怪訝な目で見て育ったわけで、自分の人生観に父からの影響を受けたなど、まったく思っていない。しかし、父の戦いをその代で終わらせる気はない。
戦いは世代を超えて継承される。あの日からそれが始まったと思っている。
posted by RBRA at 00:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 幹事長 伊藤祐靖
この記事へのコメント
「戦争っていうものはな、どうしても譲れないものがあるからするもんなんだよ。元に戻すまでは止めないんだよ。終わったふりも、負けたふりもするけどね」

だから、横井氏達も当然の様に島に潜伏し任務を継続した。
全ては日本国の為*両陛下と同じ自己犠牲だ。
戦う人の真の姿、魂、優しさ強さを見た気がする。
感謝*

戦争はそんな甘いものではない。
国境もあれば文化・経済の違いもあり、スパイも居る。

優秀な日本人=日本の教育と母親達が素晴らしかった。
だから戦後、教育と女性:家庭を壊された。
私達はそれを元に戻したいと思っている。

私も再び日本に生まれたからには、自分の役割の中で日本の為に生きたい。
Posted by すずめ* at 2012年04月09日 13:05
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